墓参りツアーレポート(3) 蘭陵王ゼミ
(さいら)


10月8日。
 昨日のうちに「蘭陵王墓は馬忠理先生が案内してくれる」というガイドさんの情
報で、昨夜は橘さんにもらった資料を復習。そのため寝る時間が遅くなってしまい、
とりあえずバスで寝ようと思いながら朝食をとっていた。するとガイドさんが「馬
先生は7:30に来るのは無理なので、8:00に来る」との話。てっきり蘭陵王
墓のみ案内してくれるのだとばかり思っていたら、何と1日じゅう案内してくれた
のだった。実は先生、ナビも兼ねていらしたのだけれど。おかげでバスで寝るとい
う野望は、達成できるわけはなかった。
 さて、馬忠理先生とは誰ぞや?と思われていることだろう。私のページの参考文
献を見ても名前が出ていない。私はこの先生のかかれた文献に当たったことはほと
んどなかったのだが、大学で蘭陵王の論文を書いた橘さんが、馬先生の書いた論文
を参考にしていた。馬先生の書いた論文とは、蘭陵王碑の解読、北朝墓群の発掘報
告。そう、この旅のメインについて研究されている方なのだ。おそらく、第一人者
といって差し支えないだろう。10年近く前、南都楽所の方々が蘭陵王墓・碑の前
で舞楽奉納した時も、案内したのはこの馬先生だった。
 しかし南都楽所の方々が行かれた時は交流会等を兼ねており、たかだかグループ
の旅行で研究者の案内がつくとは思わなかった。実は橘さんに「馬先生に会うこと
はできないかな」と持ちかけられたこともあったのだが、いくらなんでもグループ
旅行如きでそれはできないだろうと旅行会社にも持ちかけずに却下していたのだ。
キャラバントラベル、そして現地の河北省海外旅游公司、ありがとう!

 荷物を用意してロビーに下りると、既に馬先生がいらしていた。挨拶をすると名
刺を渡され、自分の名刺を日本においてきたことを悔やむ。ピカチュウ名刺(笑)
でもいいから持って来るべきだった。
 バスに乗り、まずはギョウ城へ向かう。墓前演奏もOKであるときき、雅楽組の
2人は後ろに席をとってそれぞれの楽器の練習をはじめる。蘭陵王好きで参加した
4人は馬先生と通訳になってくれたガイドさんを囲むように席を陣取り、さっそく
質問攻めに入った。成果はもちろん盛りだくさん。何を聞いてどんな答えを得られ
たかはHPや同人誌に反映していくので、そちらを見てくださいませ。

 9:30、ギョウ城址着。ギョウ城で残っているのは、三国曹魏のギョウ北城、
北斉のギョウ南城のうち、ギョウ北城の三台の一つ、金鳳台だけ。三台は「三国演
義」で有名なあの三台のこと。ギョウ南城は洪水で流れが変わったショウ水に水没
している。近年、ギョウ南城は発掘調査が進んでいて、その全容がわかってきつつ
ある。
 中に入ると観光向けに作られた武将の塑像が置かれ、中庭といった風情の空間が。
馬先生が近くのむきだしの礎石を指差し「これは北斉時代のものだ」という。その
言葉にぱっとたかって写真を撮りはじめる面々。やけにきれいだと思ったら、ずっ
と地中に埋もれていたものだという。
 現地ガイドさんの案内で、曹魏時代につくられたという転軍洞に入る。金鳳台の
下を通り、裏手に回って1周している。曹操の軍が軍勢を水増しして見せるために
この洞から兵を巡らせたという伝説があるそうだ。
 さらに登って台の上の資料室へ。ここにはギョウ城の簡単な歴史が壁に紹介され
ており、中にはかつてのギョウ城、現在の状態、そして将来のテーマパーク計画の
ミニチュアが並べられていた。かつてのギョウ城のミニチュアはかなり詳しく、唯
一デジカメを持ってきたコジメイさんがじっくり撮っていた。出来上がりがとても
楽しみだ。
 資料室の裏手に出ると、何もない台に、やはり観光向けな武将像が居並んでいた。
ガイドさんがさらに北に残り2つの台があると教えてくれた。今はもう土盛りだけ
な銅雀台、ほぼ平らになってしまっている冰井台。それを写真に収め、下に戻りま
した。
 入口に戻るとちょっとした売店があり、ギョウ城に関する本が売っていました。
資料!とばかりに買いあさりました。(全種類買ったのは私だけだ。ごめんよ、先
に買っちゃって)おかげでリーフレットをサービスしてくれました。ラッキーv
 やや遅れぎみの10:30ごろギョウ城を離れ、次の目的地、蘭陵王墓・碑へ。
30分ほどでこの旅の大本命にたどり着きました。まわりはぐるっと壁が巡らされ
ている。92年にこの壁がつくられたという。確か南都楽所の方が、南都楽所の舞
楽奉納をきっかけに整備したとおっしゃっていたので、その時のことなのだろう。
 まずは碑を見る。碑楼に守られ半地下に碑は建っていた。中に入る階段が閉まっ
ているので躊躇していると、現地ガイドさんが蓋を開けてくれ、中へ。話には聞い
ていたが大きい碑である。前日見た響堂山の唐ヨウの石刻と同じぐらいの大きさが
ある。みんなは先生の説明を聞いていたが、私は説明そっちのけで写真を撮り始め
た。まずは表を撮り、まだみんなが表にいるうちから裏に回る。
 裏は、思った以上に風化が激しかった。馬先生の論文でも一部しか解読がなされ
ていない理由がわかった。辛うじてはっきりわかるのは、さいごの「武平六年八月」
という、おそらく碑を建てた日付の文字。それでもあきらめず、写真に収めた。フ
ラッシュがうまくきいていることを祈って。
 コジメイさんがデジカメを貸してくれ、また撮り始める。デジカメは風化して見
えにくい文字も浮き出していた。これはいける!とバシバシ撮っていると、ゆうり
さんが肩車するかと聞いてきたので、しっかり甘えることに。おかげで上のほうが
しっかり撮れましたv もちろん、まわりには引かれたけどさ。
 橘さんは持ってきた半紙に鉛筆で転写をはじめ、雅楽2人組は碑楼の階段に座り、
演奏をはじめた。曲は蘭陵王ではなく、鎮魂曲の「迥思」。その間、私は碑楼の裏
の窓から、陰額の延宗の詩と碑文の上のほうを撮っていました。
 碑のところですでに予定時間をオーバーしていたので、急いで墓の周りを見て、
像とツーショット写真を撮ってから、離れました。墓のほうはまだ発掘調査はされ
ていないそうですが、地元の人の話では、墓の裏のほうに盗掘の穴があるという噂
もあるそうです。発掘予定もまだないということで、私たちが生きている間に発掘
調査がされて欲しいと思う反面、盗掘されているなよと祈ってしまいました。しょ
せん、考古学と盗掘は紙一重…。

 ここでいったん磁県の県城に戻り、昼食。これが13:00ごろ。入ったのは招
待所のレストランのようでしたが、田舎料理といった感じで、料理はおいしかった
です。余談だけど、石家荘市の新しいスーパーのトイレには扉がなかったけど、こ
このトイレにはちゃんと扉があったなー。

 きた道を戻り、蘭陵王墓の横を通ってあぜ道のような道路を突っ走り、東魏孝静
帝陵へ。でも、夜の間に降った雨のおかげで道はぐちゃぐちゃ。そんなひどい道を
乗り切った後、思わず運転手さんに拍手。いや、揺れた揺れた(笑)。着いたのは
14:30ごろ。
 孝静帝陵はまたの名を平頂山。ふつうは天子陵とよばれているそうだ。かなりき
れいに整備されていて、下のほうには整備に当たって寄進した名士の碑銘が並んで
いました。頂上に道観があり、道観の前には北斉時代の兵士傭を模した塑像が立っ
ていました。裏の階段を下りるとあぶくの音が聞こえるというので下りてみると聞
こえない。どうも本人には聞こえず、上にいる人たちには聞こえたらしい。この音
がするのは、この下に空洞があるためではないかといわれているそうだ。大きな石
室の存在も期待できるところ。
 
 続けて高歓、高澄の墓へ。ここへ着いたのが15:40ごろ。地元民がレンガを
作るため墓の土を持っていってしまったため、両方とも見るにしのびない形になっ
ていた。でも1000年以上も前に死んでいる人の墓だものね、生きている人たち
のためなら仕方ないか…。けれど先生の話によると、このあたりはかつて大塚営と
呼ばれており、この辺りの人々は墓守をしていたのだという。
 2つの墓は500mと離れておらず、先生が示したもとの大きさは、おそらく孝
静帝陵と同じくらい。ほぼ隣り合う位置にあったようだ。
 高洋の墓と、見事な壁画と傭が出たことで有名な高潤の墓は今はもう平になって
しまっているということで、見学はとりやめ。その代わり、先生のご厚意で、磁県
文物研究所に行くことになった。先生、ありがとう!!

 16:15、磁県文物研究所着。こんなところに連れてきてもらえるあたり、す
でにふつうの観光ではないなと感激ひとしお。本当は壁画が見せられるかもという
ことだったのだけれど、担当者がいないということで、墓誌を収めている部屋へ。
 ここにすごいものがあった。普通なら博物館でガラス越しにしか見れない墓誌が
あっさり床に置いてあり、しかも写真撮り放題だったのだ。高潤墓誌、元誕墓誌、
茄茄公主墓誌、済南王妃李尼墓誌etc・・・。みんなでバシバシ撮りまくり。
 部屋を出ると、入口に積んでいる石を指して先生が、これも同じ時代の未整理の
墓誌だという。なかなかキレイな墓誌で、こんなところに雨ざらしでもったいない
と思いながら一番近くにいたさいらが墓誌の名前を確認すると、中にあった墓誌の
一つのダンナのほうの墓誌だった。そう口に出すと、橘さんが思わぬ行動に出た。
墓誌の上にやはり史料と思われる礎石が載っており、そこに棒が立てかけられてい
たのだけれど、その棒をよけ、上の礎石をどかしはじめたのだ。その行動に憑かれ
たようにコジメイさんが石をどかすのを手伝い(実は最終的にガイドさんも手伝っ
てくれた)、尾崎さんは中から箒を持ってきて墓誌の上の土を掃く。まさか自分の
一言でこんなことが起きると思わなくてあっけにとられていたさいらも、土があっ
たほうが文字がきれいに浮き出るとアドバイスしてたりしたけどさ…。葦原さんと、
そしてさすがに先生もこのときばかりは引いていたそうだ……。一騒動終って、墓
誌管理の方にご挨拶したときは、さすがに冷や汗ものでした。笑って許してくれて
ありがとうございました、ホントに。
 研究所を出ようとすると、出口近くの、やはり雨ざらしの大きな石を指して先生
が、手前が高盛碑、奥が高翻碑だと見せてくれた。蘭陵王碑(高粛碑)と並んで、
「磁州三高」とよばれた美しい碑だったそうだが、蘭陵王碑の裏よりも風化がひど
く、ほとんど文字が読めない状態だった。ところどころ見える字はけっこう美しく、
風化が激しいのが残念で仕方なかった。

 これでこの日の観光はすべて終了。研究所を出たのは17:05頃だった。馬先
生を自宅近くまで送ってから、ホテルへ戻った。何とも充実した1日だった。これ
までの旅行に関するいろいろなできごとは、やはり試練としか思えなかった。

 夕食に出ると、昨日の夕食をとったファーストフードの店でテイクアウトを買い、
ホテルの近くにあって気になっていたマックもどきで夕食を買い、私の部屋でみん
なで食べました。これもまたうまかった。
 それから10:00くらいまで今日のことをだべり、いったん部屋に戻って風呂
を済ませると、11:30ごろから再び集まって今日のゼミの復習。1:40ごろ
までやり、やっと寝ました。

2000.10.11


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