◆ 高澄・母氏不得姓 ◆ 広寧王孝珩 ◆ 安徳王延宗 ◆ 河間王孝琬 ◆ 河南王孝瑜 ◆ 漁陽王紹信 ◆ 鄭妃 ◆

 高長恭の周囲を取り巻く人々1 親兄弟 

8.鄭妃

蘭陵王高長恭の妃。『北斉書』、『北史』の蘭陵王伝および安徳王延宗伝にその名が見える。
生没年などその他のプロフィールは不明。

 たぶん、あの有名な書家の鄭道昭・鄭述祖の一族(滎陽けいよう鄭氏と呼ばれます)の女性なのではないかと思っています。鄭道昭の娘・火車(大車)が高歡の妃に、道昭の息子・述祖の娘が趙郡王叡の妃に、述祖の子・雛の娘が廢帝の妃候補に、道昭の孫が崔昂に嫁していて、鄭一族と北斉の実力者との間に少なからず婚姻関係があるからです(他に、祖珽の妻が鄭道蔭の娘だそうですが、この鄭道蔭も鄭一族のひとりでしょう)。おそらく鄭妃は、道昭の息子のうちの誰かの娘だったのではと考えています。漢人文化人と交流があった長恭が、そこから妃をもらっていてもおかしくないでしょうし、妃の実家の力を背景に朝廷に入っていった、ということも考えられないではないかなと思っています。

 もう一つ、蘭陵王伝に、功績によって武成帝から妾二十人を買い与えられ、そのうち一人だけ受け取ってあとは断った、という話があります。あるいはこの女性が、鄭妃だったのかもしれません。

 史書を見る限り、健気で、心の底から長恭のことを思っていた女性だったと思います。死に臨む長恭に後主と会うように勧めたり、朝廷から死を賜った、いわば罪人の長恭をちゃんと仏式で供養しようとしたりする姿は、現実感覚に乏しかったという見方もできますが、やはり健気さゆえだと思います。安徳王延宗伝に、鄭妃が自分の身に付けていた装飾品を次兄・広寧王孝珩に買い取ってもらい長恭の供養をしようとしたが、延宗がそれを手紙で諌めたという話が載っています。橘ゆずほさんのお話によると、自分の身に付けている装飾品を売るという行為は、もう誰のためにも自分の身を装わない、つまり死別した長恭以外の誰の妻にもならないという意志の表れだそうです。もうこれ聞いたときは鄭妃はホントに長恭のことを想っていたのだなと感動しました。たぶん、下に書いている長恭の孫が生き残っていたのも、鄭妃の努力ゆえの部分があるのではないでしょうか?

 北斉書・北史を見る限りでは長恭と鄭妃の間に息子はなかったようですね。資料に出てこないだけで、娘はいたんじゃないかと思っています。(もしかしたら出ているのかもしれないけど、北斉の公主は誰の娘とか姉妹とかいうのが、ほとんどわからない)…と思っていたら!! 雑談のページに書きましたが、どうも息子がいたようなんです!! くわしくは雑談のココを見てくださいなv

9.妾妃

 上の鄭妃の記述とかぶりますが、蘭陵王伝に、功績によって武成帝から妾二十人を買い与えられ、そのうち一人だけ受け取ってあとは断った、という話があります。
 たぶん鄭妃とはべつにこの女性が妾として入ったんじゃないかと思います。この女性がどんな人であったか、他に妾がいたのかなどもわかってません。



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