◆ 北斉という国 ◆ 年表1 ◆ 年表2 ◆ 北斉宗家系図 ◆ 北斉高氏関係系図 ◆

 北斉という国 




乱脈の王朝

 北斉は西暦550年、高洋(文宣帝)が建て、577年、幼主の時に北周に亡ぼされるまでの28年、六代続きました。宗室の高氏は河北の名族・高氏の流れを汲むと称していたようですが、実際は鮮卑族(せんぴぞく)の出身だったようです。高洋の父・高歡(こうかん)は、その鮮卑族が建てた北魏の臣・爾朱栄(じしゅ えい)の部下でした。
 北魏は386年におこり、それから百年の間に華北を統一し、栄えました。「拓跋(たくばつ)」の姓から「元」姓に替えたり、鮮卑族風の習慣を漢族風の習慣に改めたりした孝文帝の「漢化政策」は有名な話です。しかし5世紀の末に、都を洛陽に遷したころから衰えはじめます。

 そんな中、山西一帯に勢力をはる爾朱栄は、当時政権を握っていた霊太后を殺し、皇帝を弑して別の皇帝を擁立し、ほしいままに政治を行ないます。彼の専横に腹を据えかねた新帝は、隙を見て爾朱栄を殺しますが、新帝もまた爾朱栄の一族に殺されてしまいました。
 これから数年の間に、爾朱一族と高歡によって、皇帝の廃立が目まぐるしく行なわれます。爾朱栄の死後の爾朱一族に見切りをつけた高歡は、この間に力をつけて爾朱一族を亡ぼし、彼らの部下のほとんどを自分の麾下におきました。高歡は渤海王(ぼっかい おう)に封ぜられ、孝武帝を立ててさらに大丞相の位に就きます。ところが、孝武帝は次第に高歡が邪魔になり、彼を除こうとしますが成功せず、爾朱一族の部下で、高歡の下につかなかった宇文泰(うぶん たい)のもとに奔ります。
 孝武帝に逃げられた高歡は孝静帝を擁立し、都を鄴(ぎょう)に遷して東魏を建てます。東魏でも高歡は実権を握りますが、それから10年ほど後、53歳で病死します。逃げた孝武帝は宇文泰に殺され、宇文泰は別の皇帝を擁立し、西魏を建てます。
 高歡あとを長子の高澄(こうちょう)が継ぐと、高澄の力を侮った高歡の部下の侯景(こうけい)が南朝の梁に奔り、548年、兵を挙げて梁(りょう)の都・建康(けんこう)を占領し、武帝を幽閉し、事実上、梁を亡ぼしてしまいました。しかし侯景もまた、梁将の陳覇先(ちん はせん)に亡ぼされます。この陳覇先が557年に陳をおこし、武帝と呼ばれます。陳の建国と、宇文泰の子の宇文覚(うぶん かく)が西魏を廃して北周を建てたのは同じ年のことです。こうして、蘭陵王長恭の活躍した南北朝最後の三国が出揃います。

 ところで、この北斉、北周、陳の三国のうち、もっとも実力があったのは北斉でした。
 北斉の初代・文宣帝は、兄の高澄が即位を目の前にして暗殺された翌年に、北斉を建てます。文宣帝は、突厥(とっけつ)や契丹(きったん)を破り、西魏の宇文泰を追い払うなど、戦争の天才でした。しかし怒ったり酒が入ったりすると、嗜虐的な人でもありました。諌臣を痛めつけた上に殺し、有望な異母弟を土牢に閉じ込めて焼き殺し、東魏の王族を金鳳台(きんぽうだい)から落としました。後に即位する高演(こうえん)も酒の席で鞭打たれ、危うく殺されそうになったこともあります。しかし酒が過ぎて病気になり、559年、31歳で亡くなります。
  文宣帝の死後、太子の殷(いん)が即位しますが(廃帝)すぐに廃され、文宣帝の弟の高演が即位します(孝昭帝(こうしょうてい))。孝昭帝は英邁の天子で、北斉の勢力をさらに拡大させましたが、落馬で骨折したのがもとで、即位後わずか1年にして死んでしまいました。
 その後は弟の高湛(こうたん)が即位します(武成帝(ぶせいてい))。即位後は政治は臣下に任せ、酒を飲んで日々を過ごしていました。しかも、恩倖(おんこう)と呼ばれる佞臣(ねいしん)の言葉ばかりに耳を傾けるので、北斉の政治は乱れていきました。
 武成帝は文宣帝と似ており、酒に溺れはしましたが、ひとたび戦場に立つとまるで別人のようになり、次々と敵を破っていきました。それゆえ、武成帝の存命中は、北斉は三国の中で随一の力を維持し続けていました。即位の四年後、武成帝は太子の緯(い)に位を譲りますが(後主(こうしゅ))、自らは「太上皇帝」と称して実権をつかんだままでした。それからさらに4年して、武成帝は亡くなります。

 武成帝の死後、後主は自立することなく、佞臣ばかりを寵し、女色を好み、酒浸りの毎日でした。後主には、政治力も、父のような武勇もなく、北斉は内側からどんどん衰えていきました。それでも北斉が命脈を保っていたのは、父祖のころからの武将たちがっていたからです。武将たちは周囲の国からの侵攻を何度も防ぎ、周囲の国も彼らを畏れておいそれと手を出せませんでした。
 ところが、その武将の一人の段韶が病死した翌年、後主は、北周の将・韋孝寛(い こうかん)の策に踊らされた北斉の佞臣たちの讒言を容れ、自らの皇后の父でもある斛律光を誅殺してしまいます。
 その翌年、陳が北上して攻めてきました。その戦いが終わらぬうちに、後主は蘭陵王長恭に死を賜ります。そして北斉は敗れ、江淮の地(こうわい)を陳に取られてしまいました。

 今まで畏れていた将軍たちが相次いで消え、しかも軍事力が弱体化しているのを見てとった北周の武帝は、北斉に攻め入ります。一度は失敗しますが、ついに576年、北斉の副都・晋陽を陥し、翌年、首都のを降し、陳に逃れようとしていた後主と幼主たちを捕えました。北斉はここに亡びます。
 北斉の皇族や官吏たちは北周の首都・長安へ連行され、それなりの待遇を得ました。しかし後主が乱を謀ったとの誣告(ぶこく)により、北斉の宗族は殺され、高氏も亡びました。

 それからわずか三年後の581年、北周の臣・楊堅が(ようけん)北周を亡ぼし、隋を建てます。隋はその後陳をも亡ぼし、西晋が亡んでから270年ぶりに、漢末の群雄割拠からは実に400年ぶりに、中国を統一しました。
















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