蘭陵王って?〜はじめに〜
「蘭陵王」っていう名前は耳にしたことがあるかと思います。
日本では古典芸能である舞楽、雅楽の有名な演目の一つです。
舞楽、雅楽では略して「陵王」ともいわれます。
舞楽、雅楽は日本古来のものと、中国大陸、朝鮮半島などから伝わってきたものがあり、
「蘭陵王」は中国大陸から伝わってきた演目です。
中国大陸では「蘭陵王」は唐王朝の宮廷の宴楽の一つでした。
唐王朝の前の隋、さらにその前の北周のころ、中国大陸は戦乱の時代でした。
その頃の中国は歴史では「南北朝時代」と呼ばれ、北周のほかにも
北周と同じような力を持つ北斉、陳という国がありました。
そのうちの北斉に蘭陵王高長恭という人物がおり、
「蘭陵王」という芸能は、彼のエピソードをモデルにして作られたものです。
蘭陵王高長恭は北斉後期の武将です。
東魏・興和年間(539〜543)ごろ生まれました。
父は東魏の重臣・高澄、母親はわかっていません。高澄の四男です。
高澄の弟・高洋が北斉をたてたため、甥にあたる長恭も北斉の皇族です。
優しく美しい顔立ちで、声も美しかったといいます。
その姿とは裏腹な勇猛さで、数々の戦功をあげました。
彼の戦いぶりを称えて「蘭陵王入陣曲」という歌謡が作られました。
のちの唐の宴楽「蘭陵王」は、このエピソードを元に作られたといいます。
しかし華々しい活躍が裏目に出て、長恭は第五代皇帝・後主に疎まれ、
鴆酒という毒薬を賜り、亡くなりました(北斉・武平4(573)年)。
その後、北斉は北周に攻め滅ぼされ、北朝が統一されました(北斉・承光元(577)年)。
私が「蘭陵王」という名前をはじめて目にしたのは、おそらく「源氏物語」だったのでは
ないかと思うのですが、名前とエピソードを目にしただけで、特に興味を持ちませんでした。
それが10年位前にマンガや小説等で「蘭陵王」の名前をちょくちょく目にする機会があり、
「他にどんな活躍をした人なのか」となんとなく興味を持ったのが調べ始めるきっかけでした。
まず日本語の雅楽資料に当たって調べ始めても私の満足できる情報を得られず、
仕方なく、漢文だけれど伝があるという「北斉書」をあたったところ、
「毒殺された」というショッキングな内容が…。
なぜ雅楽に残っているような活躍をした人がそういうことになったのか、
それが第一歩だった気がします。
それを調べるうちに、北斉という国の魅力の虜になってしまいました。
国というか、そこに生きた人たちのバイタリティあふれる生き方といったほうが正しいでしょう。
そして華やかなエピソードからは見えない蘭陵王・高長恭の魅力。
そういったものをこのページで伝えていけたらなと思っています。
1999.12.5 娑姫羅
5月28日〜の蘭陵王のページ(仮移転)のアップについて
今回からようやく、「高長恭の生涯」の『陵王・下』に掲載予定分の文章のアップを
はじめていきます。
けどいきなりラストの章「死を賜る」からで、ちょっと驚かれたかと思います。「出
生〜少年時代」から間を飛ばして死ぬとこの話ですもんね(^^;; これはちょいと事情
があります。
1つ目が、今年のうちに『陵王・下』の文章部分だけでもHPで公開して、まとめた
いから。だったら何で「定陽の戦い」からやらんのかというと、ちょいとここの文章、
まとめるのが難しいところがあるのだ。確認してからにしたいところもあるので。
はははははー。
2つ目が、もうそろそろ完売しそうなのもあって、『陵王・上』の内容のHPへの
アップはできるだけ控えたいと思っています。完売してからアップしようかなと。い
ちばんオイシイところがなくて申し訳ないのですが、ケーキの苺はあとから食べようっ
てことで…。
こうすると、段韶の紹介が載せられなくて、私は悲しいのだが…(T_T)
追記:ずっと書き忘れてましたけど、『たいへん申しわけなく…』に「中国芸能の
蘭陵王・概説」を載せたので、「中国芸能」のコーナーも年内はアップしません。
ご了承ください。追記その2: 年が改まったため、「中国芸能」のコーナーのアップも開始しました。
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