◆ 誕生〜少年時代 ◆ 封爵 ◆ 芒山の戦い ◆ 定陽の戦い ◆ 死を賜る ◆

 高長恭の生涯 


誕生〜少年時代


家族構成
高澄こうちょう(諡号・文襄帝ぶんじょうてい)
不明
祖父 高歡こうかん(諡号・神武帝しんぶてい)
祖母 婁昭君るしょうくん(武明皇后ぶみょうこうごう)
兄弟 高孝瑜こうこうゆ(河南王)・高孝珩こうこうこう(広寧王)・高孝琬こうこうえん(河間王)・
高延宗こうえんそう(安徳王)・高紹信こうしょうしん(漁陽王)

 

父親と母親
 
 

 東魏の重臣・高歡(こうかん)とその正妻・婁昭君(るしょうくん)の長子・高澄(こうちょう)が長恭の父親です。この人を父親に持ったことが、長恭の人生を運命づけていたと言っても、過言ではないでしょう。
 高澄は、順調にいけば初代の北斉皇帝になるはずの人物でした。それを目の前にして、彼は二十九歳の若さで暗殺されてしまいます。長恭は十歳に満たず、長子の孝瑜(こうゆ)でさえ、まだ十三歳の時のことでした。そして北斉は高澄の弟の高洋(こうよう)が樹てます。これが高澄の子供たちを、嫡流でありながら皇位継承権が遠いという、複雑で、ある意味悲劇的な立場に置くことになります。

 長恭の母親については何もわからず、姓すらも伝わっていません。ただ一つだけ、清の時代に北史をもとにして書かれた小説『北史演義』の中に、こんな文があります。
  蘭陵王は、文襄の第四子にして、妃の荀氏、名は翠容の出すところなり。
  荀氏はもとは爾朱后の婢なり。性、慧巧にして、十四の年に、常に献武
  (高歡)に侍る。后は、その献武と私に有るを疑い、置いてこれの死を欲す。
  献武これを婁后へ送り、これの養う処とす。婁、もってその秀にして神
  清なるを見ること、日後に必ず貴子を生まんとし、すなわち文襄に賜り
  妾となし、しかるに蘭陵を生む。

簡単に言うと、高歡の妾妃の爾朱氏(じしゅし)の婢だった荀翠容( じゅんすいよう)という少女が、高歡に気に入られたために主人に殺されそうになったため、正妻の婁后に預けられ、その器量を見込まれて跡継ぎの高澄の妾になり、長恭を生んだということなのですが。でもこの話はできすぎていて、『北史演義』の作者の創作だと思われます。けれど、このエピソードの基本となる資料があったのなら、見てみたいです。謎の多い蘭陵王の生涯を解く、一つの鍵になるはずですから。

 



生年(一部修正)
 
 

 長恭の生まれた年については、正史にも、『北史演義』のどちらにも書かれていません。ただし、兄弟の年齢から、だいたいの推測はできます。 
長男 孝瑜
(こうゆ)
537年
(東魏・天平4年)
武成帝と同い年
次男 孝珩
(こうこう)
539〜541年の間
(東魏・元象元年〜興和3年)
577年に「一族の中で四十歳をこえることができたのは、私だけだ」と言っている
577年に「一族の中で高祖以外に四十歳をこえることができなかったのは天命だ」と言っている(※)
三男 孝琬
(こうえん)
541年(東魏・興和3年) 541年12月に、伯父にあたる東魏の孝静帝より両親のもとに生誕祝いが贈られた
四男 長恭
(ちょうきょう)
不明  
五男 延宗
(えんそう)
544年
(東魏・武定二年)
12歳の時に、安徳王に封ずることを定められた《封爵は555年(北斉・天保6年)》
六男 紹信
(しょうしん)
不明  
このほかに姉妹が少なくとも三人はいます。孝琬の同母妹が二人(双子? 1人は崔達拏に嫁した楽安長公主)と、側室の元玉儀が生んだ女が少なくとも一人。
(※孝珩については高立夏さまよりご指摘いただきましたので訂正します。ありがとうございます)

 
 この六人の母親は全員違っていますので、長恭の生まれた年は、538年から544年の間と考えられます。
 私見になりますが、不明の2人の年齢は、次のように考えています。
  長恭 541年(東魏・興和3年)
  紹信 549年(東魏・武定7年)
 紹信は、高澄の弟の高洋(文宣帝)の子供と名前のつけ方が同じです。これは、高洋から名前をつけてもらった…つまり高澄の死後に生まれたと考えています。
 長恭については、次の一文が根拠になっています。
  乾明元年(560)三月壬申、文襄帝第二子孝を広寧王とし、第三子長恭を
 蘭陵王とし、封ず。                 (廃帝紀)
 
この文を見て、あれっと思うでしょう? 第四子のはずの長恭が、第三子になっています。単なる記録ミスかもしれませんが、私はあえてこれに注目しています。
長恭が第三子−つまり兄の孝琬と間違えられたということは、この二人に、生まれ順を取り違えられる要素があったのでしょう。それは例えば、外見が似ている、同じ年に生まれた、この時代にすでに長恭の生まれた年がわからない、などといったことが挙げられます。このうち、私は「同じ年に生まれた」ためと考えています。(※)
 もう一つ、どうして541年なのか。例の一文は、北斉書にはじめて登場する蘭陵王の記事です。それ以前にほかの兄弟たちは封爵をされているのに、蘭陵王だけ一人遅れています(孝珩は555年にいちど広寧王に封ぜられている)。蘭陵王がなかなか王に封ぜられなかったのは、何らかのわけがあったのでしょう。それが皇族としてはぎりぎりの二十歳で成人したのを機に、封爵ということになったのだろうと考えています。これを逆算して541年としています。
(孝琬の生年については橘ゆずほさんより『資治通鑑』の記事を教えていただきました。 ありがとうございます(^^)

※ (2000.1.29追記)
  先日松川湖通里さんからいただいた河北省磁県(蘭陵王のお墓があるところ)発行の資料にも、これと同じような見解が書かれていました。
   こっから先は、それの、だいたいの訳。
    (ちゃんとした訳は、尾崎恭子さんか、橘ゆずほさんの訳を待つべし)
   (碑の)はじめの行に「王諱粛、字長恭。渤海蓚(本当はくさかんむりに脩)人。
   高祖神武帝之孫、文襄皇帝第三子也。……」
   また、『北斉書』帝紀五巻の記載は「乾明元年、封文襄第二子孝珩為廣寧王、
   第三子長恭為蘭陵王」
   また、『北斉書』列伝十一巻の記載は「蘭陵王長恭、一名孝瓘、文襄第四子也」
   とあり、一つの書で記述が一致しない。碑の文面から推し量るに、生まれ順が
   混同されているのではないか?
   『北斉書』列伝十一巻の記載は「蘭陵王長恭不得母氏姓」とある。
   すぐ上の兄・
孝琬は神武帝の嫡孫、文襄帝の嫡子、東魏孝静帝の外甥で、(兄
   弟のうち)もっとも勢力が大きかったため、蘭陵王より後に生まれたものを、排
   行を前としたのではないか。死後になって真実を碑に刻んだのであろう。

 

 

 

 
 
名前のこと

 中国では、一族(または兄弟)の名前(諱)は、同じ世代の一番上の人の名前と同じ字を使ったり、扁や旁などが同じ字を使うという話を聞いたことがあります。北斉の皇族もそれに倣っていることは、資料篇の系図を見てもらえばわかると思います。
           
神武帝(高歡)の子 「さんずい」の字
文宣帝(高洋)の子 一字目が「紹」
孝昭帝(高演)の子 一字目が「彦」
武成帝(高湛)の子 一字目が「仁」もしくは「糸扁」の字
文襄帝(高澄)の子
(長恭の兄弟)
長恭までは、
一字目が「孝」、二字目が「玉扁」


 「長恭までは」と書きましたが、長恭は、またの名を「孝瓘(こうかん)」といいます。それがのちに「長恭」という名に変わります。おそらく二字目の「瓘」が、祖父の高歡の名と同じ音だったので、高歡の死後にその名を避けて変えたのでしょう。蘭陵王のすぐ下の弟の延宗も、「延宗」は字(よびな)で、諱は兄たちと同じように規則に則った名前だったかもしれませんね。
 というのも、もとは南朝の出身で北斉にも仕えた顔之推が、著書『顔氏家訓』の中で、
  「河北(北朝)の士人の間では、名(諱)と字(よびな)の区別が全然つけられず、名もやはり
   字だといい、字はもとより字だといっている」
と書いています。実際そうであったらしく、孝昭帝や武成帝の子の「彦」や「仁」の入った名前は、どうやら字だったようです。しかし、本来は名でなく字を呼ぶのを、北斉では名でも字でも好き勝手に使っているうちに、ふだん呼ばれないほうが忘れられ、字が名と間違えられて史書に残ってしまったとも考えられます。
 そう考えると、「長恭」という名も、あるいは字であったかもしれませんね(長恭の兄弟の名の規則性は、長子の孝瑜に「正徳」という字が伝わっているので、名前のほうだったようです)。

 また、『蘭陵王碑』では、「名は粛、字は長恭」とかかれています。上に書いた件と合わせて考えると、祖父の諱をさけて「粛」に改名したか、または碑ができたのは北斉のころだったようですので、改名はしていなくてもやはり高祖の諱をさけて書かれたか、どちらかではないかと思われます。
  名(諱)
北斉書・北史 孝瓘長恭
蘭陵王碑 長恭



 
 
少年時代

 『北史演義』に荀翠容という高澄の妾が、長恭の母と書かれていることを紹介しました。しかし正史では、長恭の母については不明としています。そのうえ長恭については、封爵を受ける二十歳頃までのことが記されていないため、どんな少年時代を送ったのか全くわかりません。
北斉宗室の皇子一人であり、後に北斉を支える人物なのにです。
 これは、母親の実家に力がない、または身分が低いためと考えられます。父親の死後、バックアップの手段のなかった長恭は、朝廷からその存在をほとんど忘れられていたのでしょう。

 と、大まかな予想はつくのですが、細かいことまで考えてしまいたくなるのが、ミーハーな同人ヤローの悲しい性分でして、私はこんなふうに考えています。
………………………………………………………………………
  母親は身分の低い婢、または妓女。もちろん美しかったでしょう。しかし、高澄の妾としては下のほうの位か、正式に妾とされておらず(いわゆる「お手つき」ってやつですね)、高澄の死後、別の人に嫁した。幼い長恭は母の新たな嫁ぎ先、または婁后の周囲で育てられる。このため、長恭は朝廷の目につくこともなく、ほとんど皇子であるという立場を忘れられたまま、少年時代を過ごした。十五歳〜十八歳頃に結婚。二十歳の封爵を機に、朝廷に出仕するようになる。


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