◆ 斛律光 ◆ 段韶 ◆ 尉相願 ◆ もっと増えるでしょう(^^;;

 高長恭の周囲を取り巻く人々3 勲貴 

1.斛律光(こくりつ こう)

北斉の武将 勲貴のリーダー 字は明月
北魏 孝昌元年(525)生まれ
父は勲貴のリーダーで朔州勅勒部出身の斛律金。母の姓名は不明。
弟に羨(字・豊楽)。
息子は五人。上から武都(文宣帝の義寧公主を娶る)、須達、世雄、恒伽、鍾。
娘は少なくとも三人。長女が楽陵王百年の妃、次女が後主の皇后、穆提婆に求婚された庶出の娘。
北斉皇室の外戚でもある。

 若いうちから騎射を得意とし、武芸で名を知られていた。父に従って西征したとき武功を挙げ、若干17歳にして都督に抜擢される。これ以降、彼は次々と功績を挙げていく。
 552年 庫莫奚を討ったとき、先陣を切って敵を破る。
 556年 北周の王敬儁らを破る。
 558年 北周の絳川・白馬・翼城などの四戍(=国境守備の陣営)を取る。
 559年 文侯鎭を取る。
 563年 軹関の西に勳掌城を築く。
 564年 平陽に侵入した北周軍を追い払う。 突厥を討つ。
      北周軍に包囲された洛陽を救うべく五万騎を率いて芒山で戦い、三千余の首級を挙げる。
 枚挙に暇が無いとはこのことで、これら数多くの功績で彼は官は太尉に、爵は冠軍縣公にまでのぼりつめる。そして父・金の死後はその爵の咸陽王を嗣ぐ。
 570年〜572年の国境線での北周との攻防戦では、北周軍に包囲された洛陽を救い、宜陽、安鄴、鹿盧交など国境付近の北周軍を次々に討って退かせたり、洛陽〜汾水ラインの国境地帯に戍を築いて北周の来襲に備えるなど、さらに功績を挙げる。しかしこの戦いが、彼の命を縮めることになる。詳しくは「高長恭の生涯 5.死を賜る」の中で書く「斛律一族の誅滅」を参考にしてほしい。
 572年、謀反を計画しているとでっち上げられ、涼風堂で殺される。享年58歳。この誅殺は勲貴の力を削ぐ目的もあったため、末子の鍾を除く一族の男子は殺され、当時後主の皇后だった彼の娘は庶人に落とされる。

 口数が少なく、誰にでも厳しい性格だったようですね。誰にでも厳しいことは、勲貴や統率や兵の鍛錬や数々の軍功につながりましたが、反面、後主の側近とのトラブル、引いては自分の一族の滅亡への引き金になってしまいました。政治の駆け引きに少々うとい、典型的な武人ですよね。その一方で、楽陵王が殺されたとき、その妃であった彼の長女が悲しみの余り食事を取らず、楽陵王の形見の玦を握りしめたまま死んでしまったとき、彼が黙って娘の遺体の手を執ると、娘の手が開いたという悲しい話があります。
 彼の性格とか、プライベートな情報やエピソードはこれ以上無く、物語として描くにはちょっと面白味がない、というのが正直な感想です。長恭とともに戦っていることが何度もあるはずなんですが、彼の伝には一字も出てこないんですね。身分と実際の立場が逆転していて性格も違う二人がどんな風にからんだのか、興味あるところなんですが。

 斛律光の武功と英勇は並びなく、名将であるとは思います。でも父・金が長命(享年80歳)であったおかげで、政治の駆け引きは父に任せ、彼自身はそういったことに気がねすることなく戦に没頭できた、という面を持っていたのではないかと思っています。武都と義寧公主との結婚も、二人の娘の入内も、斛律光の力ももちろんあったと思いますが、それよりも斛律金の力のほうが大きかったと私は思えるのです。だから北斉随一の名将とは言いにくいんですよね、私としては。

 北斉滅亡後、征服した北周によって彼の名誉は回復されました。生き残った末子の鍾は北周にて崇國公を嗣ぎ、その後の隋では驃騎将軍となりました。さらに唐になり、子孫が斛律光の墓碑を建てたといいます。



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