◆ 誕生〜少年時代 ◆ 封爵 ◆ 芒山の戦い ◆ 定陽の戦い ◆ 死を賜る ◆

 高長恭の生涯 


定陽の戦い


後主

 長恭の中央への復帰は武成帝の死より一年あとの、天統5年(569)12月15日のことで、再び尚書令となります。この前に開府儀同三司かいふ ぎ どう さんしという肩書きがありますので、この尚書令に任じられる前には鄴都に戻っていたようです。ちなみに、開府儀同三司というのは、宮廷におかれている府(役所)とは別に、自分の府(長恭の場合、蘭陵王府と呼ばれたはず)を設けて、属官をおくことのできる制度です。
 後主という人物については「蘭陵王を取り巻く人々」のところで詳しく紹介しますが、ここでも少し説明を。後主は武成帝の嫡子で、わずか八歳で即位します。そして親に似て、典型的な暗君でした。政治はまったく省みない、戦争にも興味がない、遊興と快楽三昧で、佞臣の思うがままに操られていました。ただ、文学芸能方面への興味が高かったらしく、「文林館」ができたのも後主の時代です。
 封爵の直後の頃の項で書いた「文苑伝」の、晋陵王孝式=蘭陵王孝瓘の説が本当であれば、長恭と後主はそれほどまずい関係ではなかったと思います。本当でないにしても、文学を好んだ後主と、文人たちとの親交のあった長恭とは、関係する機会が多かったでしょう。
 そんなこともあってか、父の武成帝の時とは違って、武成帝が亡くなったばかりの頃は長恭に対する後主の信頼は篤かったように見えます。この翌年、長恭は尚書令の地位を恩倖の和士開に奪われますが、待遇は変わらず、尚書令と同じだけの禄を受け続けます。その後、名誉の位はどんどん上がっていき、それは、死を賜る月まで続くのです。
 その代わり、専ら対北周の将という立場になります。実際には、この辺りから病がちだったらしい段韶の、副将のような役割をしています。




定陽の戦い

 長恭が尚書令になった頃(569年12月)、洛州刺史の独孤永業どっこ えいぎょう(あざなは世基せいき)が、北周に攻め入り、対して北周は、洛陽を囲み、糧道を塞いでしまいます。北斉は斛律光を派遣し、北周を国境まで退かせます。
 ここから武平2年(571)に至るまで、足掛け二年、定陽ていようを中心にして、黄河と汾水ふんすいにはさまれた汾州の南部地域をめぐっての攻防戦が展開します。斛律光が主にその将となり、段韶や長恭も要請があった時や、戦況を見て出陣しています。その中で、長恭は太尉となっています。
 武平2年(571)3月、北周が攻めてきたのに対して斛律光が先に出陣しますが、防ぎきれず、段韶にも出陣を請います。まず服秦ふくしん城を攻め、次に姚襄ようじょう城を陥します。そして6月、五万の兵で定陽を囲みますが、定陽城を守る北周の将・楊敷ようふが堅固に守り、なかなか陥ちません。7月に入り、ようやく外城を攻め落とします。
 しかしまだ定陽を落としきれていないこの時、段韶は陣中で病の床にありました。段韶は長恭を呼び、策を授けます。いっぽう城中の楊敷も、二千にも満たない兵でここまで守り抜いてきましたが、長く包囲されていたために食料が尽きていました。それに北周の援軍は、定陽を包囲しているのが段韶だと知ったとたん進軍をやめてしまい、定陽に援軍が来る見込みはありませんでした。楊敷は決死の覚悟を固め、夜になると、手勢を率いて北斉軍に撃って出ました。しかし、段韶の策に従って長恭が城外に伏せておいた兵が逆にこれを撃ち、楊敷以下の兵はことごとく捕えられます。定陽は北斉軍の手に陥ちました。
 無理をして陣中にいた段韶の病はひどくなり、まだ全ての結果が定まらぬうちに彼は鄴に戻ることになります。北斉軍は段韶に代わって、長恭がまとめました。その功績で、長恭は蘭陵王とは別に、鉅鹿、長楽、楽平、高陽などの郡公に封ぜられました。
 そしてその年の9月、段韶は病で亡くなります。




勲貴と恩倖と文官と諸王

 北斉の宮廷には大きく3つの勢力がありました。それが、この項の見出しの「勲貴くんき」と「恩倖おんこう」と「文官」です。この3つの勢力の争いが、北斉の滅亡を加速させた原因の半分を占めていたといっても過言ではないでしょう。この3つの勢力について知らないと、この先の話がわからないと思いますので、ここでまとめて説明しておきたいと思います。

 「勲貴」
 高歡こうかん以来の家臣で、武力をもって仕えた者たち(主に鮮卑せんぴ族)を指します。これの筆頭が斛律光こくりつこうです。筆頭だったのは、正確には斛律光の父・斛律金こくりつきんです。斛律金は長命(天統3(567)年没、享年80歳)で、隠退した後もかなりの権力を持っていたようで、斛律光の娘を廢帝と後主の妃にしたりしています。斛律光はその父の跡を継ぐ形で勲貴の筆頭になりました。
 他に、これから名前が出ている人を挙げると、尉相願(い そうがん)、皮敬和(ひ けいわ)、莫多婁貸文(ばくたる たいもん)もそうです。他にもっといるのですが、『北斉書』や『北史』の勲貴たちの記述はどうも意図的に短いらしく、活躍の内容がよくわからないのです。しかし、戦の絶えなかったこの時代に、武将たちが大きな力を持っていたのは、当然といえるでしょう。
 「恩倖」
 この「恩倖」の存在が、北斉の宮廷の大きな特徴です。中国の王朝では、皇帝を堕落させ、王朝を滅ぼすのに拍車をかけるのは大抵「宦官」や「外戚」と相場が決まっていますが、後宮にわりと自由に男性が出入りできたらしい北斉では、宦官の力は弱く、かわりに皇帝の寵を受けたのが恩倖です。
 恩倖は商人や技芸を事とする者たちです。彼らは主に胡人で、商人はそのその貿易力で手に入れた異国の珍品などを手に入れることにより、技芸を事とする者たちはその技芸で代々の皇帝たちに取り入り、果ては北斉の宮廷での宰相にあたる尚書令にまで就いてしまいます。穆提婆(ぼく だいば)、韓長鸞(かん ちょうらん)、胡長仁(こ ちょうじん)、高阿那肱(こう あなこう)などがおり、その代表が和士開(か しかい)です。
 彼はもともと胡の商人で、初代の文宣帝ぶんせんていの頃から宮廷に出入りしていましたが、文宣帝には嫌われており、当時長廣王ちょうこうおうだった後の武成帝とぶせいてい懇意にしていました。武成帝・後主父子に特に気に入られ、武成帝の胡皇后ここうごうと密通しました。皇帝が彼を重用するあまり、他の勢力との軋轢をひどくし、和士開は殺されます。
 皇帝や実力者に取り入ろうして恩倖同士での結束や分裂を繰り返し、それが北斉の朝廷に影響を及ぼし、北斉の宮廷の混乱を招いた部分もあります。その上彼らは強いものになびくため、北斉の滅亡の時、副都・晋陽が陥ちるとあっさりと裏切り、内応しました。北斉の豊かな経済力を作り上げていた面もありますが、彼らは北斉の朝廷にとってマイナスの部分が多すぎた勢力でした。
 「文官」
 彼らには2つの系統があります。もともと北朝のあるところに代々住んでいて、北魏の頃から北朝に仕えていた漢人たちと、南朝から流れてきた漢人官僚です。北斉では漢人の文化を吸収しようとする動きが強く、難民同然に流れてきたり、亡命したり、捕虜となった南朝の文官たちを重く登用しました。主な者としては高洋の北斉樹立をうち立てた楊愔(よう いん)、恩倖と手を組んで斛律光と対立した祖珽(そ てい)、蘭陵王とも親交のあったらしい「顔氏家訓」の著者顔之推(がん しすい)、北魏の史書「魏書」をまとめた魏収(ぎ しゅう)、「北斉書」の選者李百薬の父で、隋で文帝をサポートした李徳林(り とくりん)などがいます。文官は、文宣帝のはじめに政治に参画して活躍しましたが、勲貴の力が強くなるとその後しばらく鳴りをひそめ、恩倖の代表格の和士開が暗殺された後に再び台頭してきました。恩倖との対立もありましたが、勲貴との対立のほうがより激しかったようです。
 私としては、ここにもう一つの勢力を挙げたいと思います。それは
「諸王」です。これは高姓の皇族と、王の爵を授かった高歓、婁昭君るしょうくんの外戚を指します。これが北斉の歴史を扱った本だと、皇族は皇帝と、外戚は勲貴とひとからげにされているようです。しかし長恭の複雑な立場からもわかる通り、皇族と皇帝は明らかに違っています。
 皇族は、北斉宗家家系図から皇帝たちを抜いた全てと、高歡の兄弟、趙郡王叡ちょうぐんおうえいなど北斉書に宗族として名の挙がる者すべてといっていいでしょう。長恭はこの中に入ります。
 外戚は、高歡の妻・婁昭君るしょうくんの一族で、婁叡るえいや段栄だんえい、その子・段韶だんしょう、竇泰とうたいなどがいます。外戚は勲貴と一緒にされているようですが、勲貴が鮮卑族の軍人たちを実際に鍛練、統率していたのに対し、外戚であることを利用して力をつけてきた鮮卑族です。史料の記述は、勲貴と扱いを分けてるように思われます。
 この諸王が、皇帝とそのとりまきの恩倖と対立していたようです。皇帝からすれば、いつ自分にとってかわらんとするか分からない諸王の存在が脅威でした。諸王側からすれば、親族よりも高歡以来の家臣たち(勲貴)よりも、得体の知れぬ輩(恩倖)を重用する皇帝に不満が募る一方で、なまじ才能を発揮すると誅殺される恐れがありました。勲貴は、あくまで家臣という立場上、諸王と皇帝との対立には首を突っ込まなかったようですが、やはり恩倖とは対立していました。文官たちは、諸王にパトロンを持っていたようで、こことの対立はありませんでしたが、性質がまったく異なる勲貴とは、当然対立が起きました。
 この複雑な勢力抗争があっても、まだ皇帝の権力が強かった武成帝の時代まではなんとか保つことができました。しかし親から諸王、勲貴の脅威ばかりたたき込まれ、恩倖から耳に優しい言葉をささやかれ続けただけで皇帝としての自覚もまるで備わっておらず、自立もできなかった後主では、諸王や勲貴との溝を深めるだけだったのも当然でした。その後主にとって、もっとも脅威となる人物の一人が、蘭陵王高長恭その人だったようです。
 長恭の兄河間王孝琬こうえん、河南王孝瑜こうゆ、楽陵王百年らくりょうおうひゃくねん、高歡の息子たち、平秦王帰彦へいしんおうきげん、趙郡王叡ちょうぐんおうえいなどは、皇帝と諸王との対立の中で殺されていった面もあります。歴代皇帝たちがどんどん諸王を殺していった結果、武成の死後の頃には、嫡流であっても庶子であるため、こういった争いには遠かったはずの長恭が、その武功もあって宗族の中では上のほう、すなわち後主の脅威となりうる立場になっていたと思われます。


和士開暗殺


文官の台頭



斛律一族の誅滅

  武平2年(571)年7月、斛律光は宮廷内の涼風堂で、代々の皇帝付きのヒットマン・劉桃枝りゅうとうしに後ろから羽交い絞めにして殺されました。幼児を除く子息、遠く突厥との国境線を守っていた弟の豊落ほうらくにまで誅殺は及びました。まだ幼児であった末子の鍾しょうは免れましたが、後主の皇后であった斛律光の次女は庶人におとされました。誅殺の理由は謀反を企てたということでしたが、当然ながらこれはでっち上げでした。

 斛律光が殺されるに至った経緯をたどると、汾水南部地域をめぐる攻防戦に行き当たります。この戦いのさなか、北周の宿将・韋孝寛いこうかんは斛律光と対面する機会を得ました。その後、卜筮に通じた韋孝寛の参軍が「来年、斉は斛律光を殺すだろう」と占いました。そこで韋孝寛は下記のような歌謡を作り、間者を使って北斉に流しました。

  「百升飛上天、明月照長安。」百升、斛也 。
  又言「高山不摧自崩、槲樹不扶自豎。」
              (『北斉書』斛律光伝・『周書』韋孝寛伝)


 もともと斛律光と対立していた後主の佞臣・穆提婆とその母・陸令萱りくれいけん、それに祖珽そていがこれを聞きつけ、北周の謀略とは知らず、さらに潤色して後主の耳に入れました。以前斛律光と軍事のことで揉めて以来、斛律光を怖れに怖れていた後主は、斛律光を一族ごと誅殺すべきだという彼らの奏上を承知しました。そしてそれは、実行されました。
(このあたりは『孫子の兵法』第8巻・用間篇(原書房刊/絶版らしい…)が詳しいです)

 このころ北斉の兵力の多くは勲貴のリーダーである斛律光によって鍛錬、統率されており、韋孝寛の謀略の狙いはまさにそこにありました。すなわち、斛律光を殺すことにより、強い北斉の兵力を瓦解させること、勲貴の結束力を弱めることでした。ありがたいことに北斉は斛律光を一族ごと殺してくれました。斛律光の死を聞いた北周の武帝は、喜んで北斉討伐の計画をはじめました。
 この誅殺の時、斛律光は一族ごと殺されましたが、その部下の勲貴や鮮卑族の人間にまで及んだ様子はありません。斛律一族さえ殺せば、そこに集中していた勲貴の勢力は分散され、その脅威から逃れられると思っていたのかもしれません。それは正しいのですが、代わりのリスクは大きすぎました。
 斛律光の死後すぐ、後主は任城王湝にんじょうおうかい、蘭陵王長恭らの位を上げています。おそらく斛律一族=勲貴に握られていた兵権を、自分により近い皇族にまとめさせることによって取り戻し、余計な叛乱等を防いだつもりだったのでしょう。しかし勲貴でない彼らには、斛律光ほどまとめることはできなかったのではないでしょうか。統率力を失った北斉軍の実態は早くも翌年・南の陳が北斉を攻めてきた時にに顕れます。これについては別項に譲りたいと思います。

 斛律光に必ずしも非がなかったわけではありません。祖珽そていや穆提婆との対立も、自ら引き起こした部分があるからです。しかし強い北斉軍を作っていたのは斛律一族に他ならず、この一族を全滅させてしまうことは軍事力を背景にした脅威から逃れられる代わりに、北斉軍を弱体化させてしまうことにつながります。3つの国が対立している時勢では、それは国の滅亡を意味していました。
 しかし斛律光の誅殺をささやいた佞臣たちにとって、一国に固執するより自分達が生き延びることが重要だったのでしょう。そのとおり、北周が北斉に本格的に侵攻し、北斉の旗色悪しと見るや、すぐさま北周に投降してしまいます。


内訌に敗れる

 定陽の戦いで決着をみた汾水南部地域をめぐる攻防戦が始まったとき(武平元年(570))、長恭は尚書令で、後主の傍近くにありました。事実上の宰相として、この戦いの対策を決めていたのではないでしょうか?
 しかしこの半年ほど後の武平元年8月、長恭は禄だけ尚書令と同じとされ、実際の尚書令からは外されてしまいます。代わって尚書令となったのは、恩倖の和士開でした。

 長恭が尚書令を外された理由はわかりませんが、私は和士開をはじめとする恩倖たちとの間に対立が生じていたのではないかと想像しています。和士開がさらに勝手にふるまうための権力を手に入れるために長恭を蹴落としたか、まじめな長恭が煙たくなった後主または側近たちが遠ざけたかのどちらかではないでしょうか?
 前者であれば、なかなか収拾のつかない汾水周辺の攻防戦を手助けするようにとか理由をつけて追い出したのでしょう。
 後者であればおそらくこんなことがあったのではないかと思っています。
 わずかな恩賞でも部下とともに分け合うような長恭は、賄賂などを忌み嫌う、清廉潔白な人だったのではないでしょうか。けれど北斉では賄賂などは日常茶飯事。長恭が後主に意見をできるような立場にあれば、当然諌めたでしょう。もちろん後主や恩倖たちはそんな長恭を煙たく思い、後主との信頼関係が揺らいでいった一因になったのではないかと思います。それを覚った長恭は、自分の信念を曲げ、後主たちに迎合して戦利品を貪るようなことをはじめたのでしょう。しかしそれでも後主とのすれちがいは修正できませんでした。(もちろん後主のとりまきたちが、溝を深めていたのだとは思いますが)

 いずれにしても長恭が中央を離れて定陽に赴いた背景には、紛争の収拾はもちろんですが、政争に敗れたという事情もかかえていたと考えています。

 定陽での戦いには勝利しましたが、このとき、長恭の気持ちはかつて芒山で勇猛に戦った時と天と地ほどにちがっていました。自らは朝廷の腐敗と後主の堕落を止められずに政争に敗れて後主からの信頼が薄れ、そのためにしたことで悪評も立っている。2人の兄はすでに武成帝に殺され、共に戦ってきた宿将の段韶も死の床にある。さまざまな出来事が、長恭の気持ちを追い詰めていました。
 そこへ、属将の尉相願が長恭に面と向かって糾弾しました。

   及在定陽,其屬尉相願謂曰「王既受朝寄,何得如此貪殘?」
  長恭未答。
  相願曰「豈不由芒山大捷,恐以威武見忌,欲自穢乎?」
  長恭曰「然。」
  相願曰「朝廷若忌王,於此犯便當行罰,求福反以速禍。」
  長恭泣下,前膝請以安身之術。
  相願曰「王前既有勳,今復告捷,威聲大重,宜屬疾在家,勿預時事。」
  長恭然其言,未能退。
                          (『北斉書』蘭陵王伝)

  (
定陽に在るとき、属将の尉相願が言った。
     「王は既に朝廷より財貨を受けています。
      なのにどうしてこのような残余を貪るようなことをするのですか?」
    長恭は答えなかった。
    相願は言った。
    「芒山の功績に頼らず、武力のために忌まれることを恐れ、
     自分から穢れようとしているのではないですか?」
    長恭は言った。「そのとおりだ」
    相願は言った。
    「朝廷がもし王を忌むのなら、この罪に対してすぐにも処断するでしょう。
     福を求めては、かえってわざわいを招きます」
    長恭は涙を流し、膝を進めて心を安らかにする術を問うた。
    相願は言った。
    「王は以前、勲功があり、今また戦勝を告げ、威光と名声甚だ重い。
     病について自宅にあり、何事にも関わらずにいるほうがよいでしょう」
    長恭はその言葉然りとしたが、退がることができなかった。)

 尉相願という人物については、人物紹介の項を参考にしていただきたいのですが、おそらくこのとき、相願は長恭の腹心だったのではないかと考えています。糾弾されたにもかかわらず長恭が身の進退について聞いたり、それに対する相願の答えが長恭の置かれている立場をわかった上での内容と受け取れるからです。長恭も、信頼している人物であったからこそ進退について聞けるのでしょうし、相願の糾弾自体が、長恭の苦衷を察した上であえて行ったのではないでしょうか。こういったことは腹心的立場でなければできないと思います。(長恭が追い詰められて、たまたま身近にいた人物に言ったということも考えられますが…。いろいろ相願の立場については推察できますが、ここでは長恭の腹心ということで話をすすめていきます)
 長恭の苦衷を察しての糾弾だと書きましたが、対する長恭の反応は、相願にとって意外だったのではないかと考えています。後主たちに迎合するのを止め、乱れた朝廷に立ち向かいたいと相談されるのではなく、そこから逃げたいと長恭は言ったのですから。
 長恭の後ろ向きな発言に、相願は病を称して引退することを勧めました。しかし長恭は表舞台から身を退くことができなかったといいます。

 その上、斛律光が一族もろとも殺され、長恭の心はさらに重くなるばかりだったでしょう。斛律光の死の報せを聞いたとき、長恭は次は自分の番だと思ったでしょうか。それとも、これから自分にのしかかってくるであろう重責と、より深まるであろう後主との溝に、さらに思い沈んでいたでしょうか。

 

蘭陵王のページTOP(仮移転)
掲示板
りんく
転倒坂うぇぶ学問所(仮移転)