◆ 誕生〜少年時代 ◆ 封爵 ◆ 芒山の戦い ◆ 定陽の戦い ◆ 死を賜る ◆
高長恭の生涯 |
定陽の戦い |
後主![]() |
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長恭の中央への復帰は武成帝の死より一年あとの、天統5年(569)12月15日のことで、再び尚書令となります。この前に開府儀同三司かいふ
ぎ どう さんしという肩書きがありますので、この尚書令に任じられる前には鄴都に戻っていたようです。ちなみに、開府儀同三司というのは、宮廷におかれている府(役所)とは別に、自分の府(長恭の場合、蘭陵王府と呼ばれたはず)を設けて、属官をおくことのできる制度です。 |
定陽の戦い![]() |
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長恭が尚書令になった頃(569年12月)、洛州刺史の独孤永業どっこ
えいぎょう(あざなは世基せいき)が、北周に攻め入り、対して北周は、洛陽を囲み、糧道を塞いでしまいます。北斉は斛律光を派遣し、北周を国境まで退かせます。 |
勲貴と恩倖と文官と諸王
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北斉の宮廷には大きく3つの勢力がありました。それが、この項の見出しの「勲貴くんき」と「恩倖おんこう」と「文官」です。この3つの勢力の争いが、北斉の滅亡を加速させた原因の半分を占めていたといっても過言ではないでしょう。この3つの勢力について知らないと、この先の話がわからないと思いますので、ここでまとめて説明しておきたいと思います。 |
和士開暗殺
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文官の台頭
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斛律一族の誅滅
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武平2年(571)年7月、斛律光は宮廷内の涼風堂で、代々の皇帝付きのヒットマン・劉桃枝りゅうとうしに後ろから羽交い絞めにして殺されました。幼児を除く子息、遠く突厥との国境線を守っていた弟の豊落ほうらくにまで誅殺は及びました。まだ幼児であった末子の鍾しょうは免れましたが、後主の皇后であった斛律光の次女は庶人におとされました。誅殺の理由は謀反を企てたということでしたが、当然ながらこれはでっち上げでした。 |
内訌に敗れる
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定陽の戦いで決着をみた汾水南部地域をめぐる攻防戦が始まったとき(武平元年(570))、長恭は尚書令で、後主の傍近くにありました。事実上の宰相として、この戦いの対策を決めていたのではないでしょうか? |
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