斛律光の誅殺から1年後、北斉の軍事力の低下を見越して攻め入ってきたのは、陰謀をはりめぐらした当の北周ではなく、武帝・陳覇先の死後、日和見的にあまりアクションを起こさなかった陳です。
陳は北斉を攻め滅ぼす第1段階として攻め入ってきたのではありません。あの強い北斉が弱くなったと知り、江淮の地をいい言葉で言えば奪回、悪く言えば掠め取りにきただけでした。この侵攻を献策し自ら兵を率いた呉明徹ごめいてつの点数稼ぎだったとも言います。
斛律光のいた頃の幻想がある北斉側はろくに防ぎもしないうちに敗戦を繰り返し、どんどん侵入を許していきました。当時おそらく、長恭が北斉軍事の最高責任者であり、事実は別として最も実力(実績)のある将軍と見られていたと思われます。少なくとも、生存する将軍の中では最も名を知られていたでしょう。おそらく3月に皮景和ひけいわ、尉破胡いはこを応戦に向かわせたのは長恭の指示だったろうと思っています。皮景和は斛律光の下で名を馳せた将軍の一人でした。
その皮景和も敗れ(実際はろくに戦わなかったようですが)たとの報せが入り、長恭は青ざめたでしょう。次は間違いなく長恭自身が将となり、戦地に赴かなくてはならないからです。行って勝利を収めれば、またさらに自分の名声が上がってしまう、そして後主はますます長恭を脅威に感じ、後主との溝はさらに深まってしまうでしょう。かといって負けてむざむざと敵を自国に踏み入らせることは、長恭の性格上、できなかったでしょう。
我去年面腫、今何不發
(私は去年、面腫をわずらった。(それを口実に第一線から退くことができた。)
今また再発すればよいのに。(そうすれば、将とならずにすむ))
(『北斉書』蘭陵王伝)
たぶん、思わず出たこの嘆きの言葉が、人を介して後主の耳に入ったのでしょう。長恭はその望みどおり、ふたたび将となることはありませんでした。
北斉から出陣した将軍のうち、梁から亡命して長年陳との前線を守ってきた王琳おうりんだけが奮戦しましたが、応援を得ることができず孤立し、捕らえられ、処刑されます。北斉は敗れ、江淮の地は陳に奪い取られました。この報せをうけた後主は「あれはもともとあちら(南朝)の領地だったのだから」とこの戦いの重要さを全く理解せず、相変わらず享楽に溺れていました。
とりあえず、皮景和たちの敗戦を知ってから長恭が殺されたように話を進めましたが、日付がないのでこれはどちらが先なのかわかりません。北斉書の記述の順ならこの通りになるのですが。長恭が皮景和たちの敗戦を知る前に殺された可能性はないではありませんが、私は皮景和たちの敗戦を知ってから殺されたと思っています。
この時の北斉書の記述を見ると、
及江淮寇擾、恐復為將、 (『北斉書』蘭陵王伝)
(武平四年)夏四月戊午、以大司馬、蘭陵王長恭為太保、
(『北斉書』後主本紀)
後主本紀のこの記述が、蘭陵王伝の「為将」に相当するのではないかと思っています。そうだとすると、長恭が出陣したという記述は、北斉書、北史、陳書には見えません。将とされたものの、引退を強く望んでいた長恭は、出陣しなかったのではないかと考えられるのです。ここで長恭が出陣を拒んだことが、長恭の死の直接の原因の一つだったのではないでしょうか。そうでなかったにしても、陳の予想外の進軍が、長恭の死の引き金の一つになったのは事実でしょう。
そしてこの敗戦は、斛律光の死による北斉の兵力の弱体化を証明してみせた戦いでもありました。北斉の後主はそれを全く悟らず、片や北周の武帝は自らの兵を一切損なうことなく自分の野望の後押しを得、そして、決断するのです。
付記1 長恭の「我去年面腫、今何不發」について。
及江淮寇擾、恐復為將、歎曰「我去年面腫、今何不發」自是有疾不療。
(蘭陵王伝)
将軍となることを恐れ嘆きのこの言葉を長恭が漏らしたのは、その性格を考えるに一人でいたとき、または信頼のおける部下やごく身内だけしか周りにいなかったときのことではないかと思われます。恐れのあまり自我を失って、他人の耳があるのもかまわず、ということも考えられないではないですが。
しかし当時の長恭の立場を考えるに、長恭を脅威に思っていた後主か、もしくは長恭と対立していたであろう後主の佞臣たちによって長恭の下にスパイが送り込まれていたか、長恭の周囲の人間や使用人などを買収したりして、この頃の長恭の周囲にはそういった目が光っていたと私は考えています。そこからこの言葉が後主まで伝わってしまったのではないかと思います。
もしかしたら感情に任せて一切の責任を捨てようとしている長恭の姿に失望して、勲貴の誰かが後主の耳に届けた可能性もあるでしょうが、目の前の陳との戦いがあるので、これはほとんど可能性がないか思います。
付記2 長恭が出陣したら、北斉軍は勝てたか。
北斉書12巻校勘記にこうあります。
論曰:文襄諸子、咸有風骨、雖文雅之道、有謝間、平、然武藝英姿、
多堪禦侮。縱咸陽賜劍、覆敗有徴、若使蘭陵獲全、未可量也、而終見
誅翦、以至土崩、可為太息者矣。(以下略)
文襄の諸子は、皆品格があり、文雅の道は間平(※)には及ばなくとも、
武芸に優れ、敵襲をよく防いだ。たとえ斛律光が剣を賜り(=死を賜り)、
(北斉が北周に)大敗する兆しがあったとしても、もし蘭陵王に全て獲さ
せれば、推し量ることはできない(=北周に大敗することはなかったかも
しれない)。しかし最終的には誅殺され、崩れ落ちる(=北斉が滅びる)
に至っては、ため息をつくばかりだ。
※ 間、平…確か曹魏の誰かを指していたはず。メモ発見できず。
校勘記ではこのように、長恭は斛律光に代わる人物として評価されています。けれど、本当に長恭は北斉の全ての兵を束ね、率いていくことが出来たのでしょうか?
私は、できなかったと思っています。
才能の面の話からすれば、正史に残る蘭陵王の戦いぶりを見るに、疑問が残ります。芒山の戦いでは、段韶が駆けつけるまで斛律光ともども動けず、段韶が立てた作戦により中軍に配されてから活躍を始めています。また、定陽の戦いでも、楊敷たちを捕らえたのは段韶の策でした。そして病身の段韶に代わって、段韶が率いていた兵を束ねたとあります。有力な武将ではあったとは思いますが、段韶や斛律光のように全軍を率い、鍛え、策を練りということが見えるような武功を立てていないように思うのです。カリスマ、というか兵からの信頼は厚かったようなので、いずれはそういう立場で活躍することができたでしょう。しかし、まだ名将2人についていくのが精一杯で、そこまで育っていないように思うのです。最も責任のある立場に立たされたとたんに大化けする可能性があるかといえば、それはこの後に書く精神面の理由により、かなりないと思います。
精神的な面な話をすれば、ますます可能性が低くなります。たとえ長恭が出陣していても、一軍の将たる者がここまでやる気をなくしていたら、勝てる戦にも勝てず、結果は同じだったのではないかと思います。もし勝てたとしたら、斛律光に代わる将軍として勲貴から絶対の信頼を受けるようになってしまい、それが嫌で本当に引退してしまったり、ますます後主や恩倖、北周や陳に恐れられ、斛律光のようなむごたらしい殺され方をしたのではないでしょうか。あるいは、斛律光の事件を反面教師として、長恭が排されないように守る勢力がおきて後主と対立がおきてしまう。そういう未来が容易に想像できるだけに、ますます勝つ気が萎えるでしょうし、そうなった時の長恭の苦しみ、混乱はいかばかりでしょう。そしてこんな混乱がおきれば、北周は好機とばかりに北斉を攻め滅ぼしに来ます。その時まで生き残り、自分の国を守るために死力を尽くして戦ったほうがよかったのでしょうか。それとも史実のとおり、君主とはいえ守るに値しないような暗君の後主への忠節を守って自分の国が滅ぼされるさまを見ることなく死んだほうがよかったのでしょうか。
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