◆ 誕生〜少年時代 ◆ 封爵 ◆ 芒山の戦い ◆ 定陽の戦い ◆ 死を賜る ◆

 高長恭の生涯 


芒山の戦い


并州刺史

 「蘭陵王伝」のはじめに、こんな文があります。

  并州刺史に累遷す。突厥が晋陽に入るに、長恭は力を尽くして之を撃つ。
  (官位は并州刺史に進んだ。突厥が晋陽に侵入したとき、長恭は力を尽くして突厥を
   撃退した)

 并州刺史は、前項で説明したとおりの高官です。在任中、突厥が并州の都でもある晋陽を攻撃したとき、長官である長恭が指揮して突厥を追い払いました。おそらく河清2年(563)12月の北周と突厥が、連合して攻撃してきたときのことだと思います。…自信のない言い方をしているのは、ちょっとヘンな話があるからです。

 この河清二年の侵攻の時、報せを受けた武成帝は、自ら晋陽に軍を進め、北周と突厥を追い払おうとしました。ところが連合軍の威容を見て圧倒されてしまい、なんと、業に逃げ帰ろうとします。それを止めたのが河間王孝琬(かけんおうこうえん)と、趙郡王叡(ちょうぐんおうえい)です。とどまった武成帝に孝琬(こうえん)は、自分に事態を任せてほしいと申し出、それを許します。そして孝琬(こうえん)は、趙郡王叡(ちょうぐんおうえい)に連合軍の撃退を命じます。趙郡王叡(ちょうぐんおうえい)は連合軍に撃って出、次に段韶(だんしょう)が出て追い払います。この功績で、孝琬(こうえん)は并州刺史に任じられました。
 翌年、段韶(だんしょう)は北周と和平を結ぼうとして、北周の実権を握る宇文護(うぶんご)の母親を帰すことを条件にして交渉を始めます。しかし同じ頃、突厥が北周に、再び連合して北斉を攻めようと持ちかけたため交渉は決裂し、北周は洛陽を攻めます。このとき并州刺史の長恭は、洛陽救出の将として派遣され、あのエピソードのもとになる大きな功績をたてます。
 この記述をまともに見ると、

    以 前 → 長恭
  河清2年(563)12月  突厥・北周連合軍が晋陽に侵攻
    以 降 ← 孝琬(こうえん)
    孝琬(こうえん)? 長恭?
  河清3年(564)10月 突厥が晋陽に、北周が洛陽に侵攻
    この間 ≪ 長恭 ≫
  河清3年(564)12月 北周を追い払う

と、わずか一年の間に目まぐるしい変化をしたことになります。しかし「武成帝紀」や「蘭陵王伝」にそういう記述はありません。この記述を信じるよりも、突厥を撃った長恭が、564年12月まで并州刺史を続け、563年の功績で孝琬(こうえん)は別の高い官位に着いたというほうが、自然な気がします。また、長恭が斛律光(こくりつこう)とともに洛陽救出の大役を命じられたのは、この武勇を買われたからでしょう。

















↓これ、本当は『陵王・上』完売後にアップするつもりでしたが、蘭陵王墓参りツアーにてちゃんと解釈を聞いて文章が変わってしまい、かつ、ここを上げないと後ろがアップできなくなってしまったので先にあげます。すいません。    (2000.10.22)

芒山の戦いのあと

 まずはいきなり、『資治通鑑』の引用から。

  高齊蘭陵武王長恭、貌美而勇、以芒山之捷、威名大盛、
  〔考異曰:北齊書:「長恭與周戰於芒山。
   後主謂曰:『入陳太深、失利悔無所及。』
   對曰:『家事親切、不覺遂然。』
   帝嫌其稱『家事』、遂忌之。」
   按芒山之戰在河清三年、後主時年九歳、尚未即位、何得有此問!
   且稱「家事」亦何足致忌!今不取。〕
  武士歌之、為蘭陵王入陳曲、
  〔杜佑曰:北齊蘭陵王長恭、才武而貌美、常著假面以對敵。
   嘗撃周師金
城下、勇冠三軍。
   齊人壯之、作此舞、以郊其指麾撃刺之容、謂之蘭陵王入陳曲。〕
  齊主忌之。
        (資治通鑑 陳紀 第171卷 陳紀五《高宗宣皇帝上之下》 五年)

 この『北斉書』の引用部分、キーワードの「家事」の意味がよくわからず、ずっと謎のままでした。今回の蘭陵王ツアーで馬忠理先生に解釈を乞うたところによると、
  後主:「陣に深く攻め入っていったが、怖れることはなかったのか」
  長恭:「家の大事が差し迫っていましたので、怖れることはありませんでした」
  後主は長恭が「家の大事」と言ったのを嫌い、長恭を忌むようになった。
「家の大事」は「我が家の大事」ぐらいに言ってしまってよいでしょう。洛陽が陥ちるかもしれない「国家の大事」のことを「我が家の大事」と言えるのは、本来は皇帝だけ。それを「我が家の大事」と言った長恭は皇帝を上の身分だと思わず、従弟、もしくは皇帝と対等の身分という意識を持っていると疑われたという解釈だということでした。

 馬先生に聞いた時も思わず叫んでしまったことなのですが、この「家事」と、すぐ上の兄・孝琬こうえんが武成帝に向かって言った「阿叔」は同じ意識(認識)から出た言葉ではないでしょうか? それは皇帝といえども同じ高氏の一族であるということ、そして北斉という国は、皇帝のものという以前に高氏の国、つまり「我が一族の国」という意識があり、それゆえ「阿叔」や「家事」という言葉が出てきたのだと思います。これは長恭の兄弟に共通した認識だったように私には見受けられます。北斉が滅びる時に他の諸王のほとんどが何もできなかったのに、最後まで粘った兄の孝珩や弟の延宗の行動も、その認識の上でだとなればすんなり解釈できます。
 手前味噌になりますが、私が同人誌で描いたマンガでは長恭の兄弟に「北斉は我らが父が築いた国」という認識を持たせていました。あながちこれも外れていないかもと思ってしまったり(笑)。

 話を戻しましょう。
 ところでこの会話ですが、『北斉書』・『北史』では後主と長恭の間で話したことになっています。しかし『資治通鑑』にあるように、芒山の戦いの時、後主はわずか9歳。しかもその時は皇太子であるもののまだ即位してはおらず、「家事」にそれほど反応したか疑問の残るところなのです。
 この会話の状況についていくつか仮説が立てられます。
 1)この会話をしたのは武成帝と長恭であり、芒山の戦いの後すぐ(1ヶ月以内)のことで   ある。
 2)この会話をしたのは皇太子時代の後主と長恭であり、芒山の戦いの後すぐ(1ヶ月以
   内)のことである。
 3)この会話をしたのは後主と長恭であり、芒山の戦いの後少ししてから(1年以内)のこと
   である。
 4)この会話をしたのは後主と長恭であり、芒山の戦いよりだいぶ後のことである。
 細かく挙げるときりがないのでこのへんで。

 まず1)について説明します。
 この会話がなされたのが後主と長恭の間でないとなったとき、いちばんすんなりいくのが当時の皇帝である武成帝との間に交わされた会話であるということ。上記にある「阿叔」と言われて孝琬を殺したのも武成帝。長恭が「家事」と言ってしまって反応するであろうことは容易に想像できます。
 芒山の戦いの後、長恭を一旦は尚書令(北斉においては事実上の宰相)になりましたが、河清4年(565)3月、業城内で彗星が見え、隕石の類が墜ち、後宮では神が現れたと騒ぎになりました。翌月、太史がこの異変を占ったところ、「王を易えよ」と出たと奏上してきました。翌日、武成帝は位を退き太子の緯(後主)が即位します。この時、尚書令は兄の河間王孝琬となり、長恭はその位を外されます。新帝のもとでの人事の刷新のためですが、この会話のために疎まれて皇帝の傍近くから離されたと考えることもできます。
 これから五年の間、長恭は司州牧のあと青州刺史、瀛州えいしゅう刺史と地方を巡りました。青州も瀛州も北周との境にあって、国境線を争う要衝の地です。その武勇を買って、国境の守備を任せるというのが表向きの理由だったでしょう。でも、前線に出しておいて、国境を守ってくれればよし、もし戦いの中で死んでくれてもかまわないという意図が隠れているように見えます。
 これを裏づけるかのように、長恭がこのあと帝紀に現われてくるのは、武成帝の死後のことなのです。

 2)と3)について。
 1)についての説明のところで出ましたが、芒山の戦い(河清3年(564)12月末)から後主の即位(河清4年(565)4月)まで、実はそれほど時間があいていません。なので芒山の戦いの直後に当時皇太子であった後主と交わされた会話であっても、同じ年の会話であるため、「帝嫌」とされてしまったかもしれません。また、後主が即位してその年のうちであれば、まだ記憶の新しいことなので後主との会話にのぼった可能性は高く、後主の即位後の会話ととっても何ら問題はありません。
 問題は、この時わずか9歳の後主が、果して「家事」という言葉に反応したかということ。この会話をした時、長恭はまだ幼い後主にわかりやすいように、あえて「家事」という言葉を使った可能性もあるのではないでしょうか? そしておそらく、当の後主はその場では別段この「家事」という言葉を気にしなかったのではないかと思います。反応したのは佞臣か武成帝。そして、長恭が後主を皇帝と思っていない、帝位を狙っていると囁いたのではないかと思うのです。幼い後主にそう刷り込めば、長恭にもともと悪意を持っていなかったとしても、いつか恐れるようになるでしょう。

 4)について。
 武成帝がなくなった後に、何かの機会に話し、この会話どおり後主が「家事」の言葉に反応したとも考えられます。武成帝の死後であれば皇帝となって4年が経ち、13歳を過ぎているわけですから、反応できる頃合いとしてちょうどいいですし。となれば、そのまま長恭が殺される原因に直結していくでしょう。

 ここで私がどれを採っているか、言及するのはとりあえずおいておきます。ここの文は長恭の死につながる部分であるので、そちらのほうで書こうと思っています。

 いずれにしろ、この戦いで長恭はいちばんの栄光とそれと相反するものをつかんでしまったことは確かなようです。



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