「蘭陵王伝」のはじめに、こんな文があります。
并州刺史に累遷す。突厥が晋陽に入るに、長恭は力を尽くして之を撃つ。
(官位は并州刺史に進んだ。突厥が晋陽に侵入したとき、長恭は力を尽くして突厥を
撃退した)
并州刺史は、前項で説明したとおりの高官です。在任中、突厥が并州の都でもある晋陽を攻撃したとき、長官である長恭が指揮して突厥を追い払いました。おそらく河清2年(563)12月の北周と突厥が、連合して攻撃してきたときのことだと思います。…自信のない言い方をしているのは、ちょっとヘンな話があるからです。
この河清二年の侵攻の時、報せを受けた武成帝は、自ら晋陽に軍を進め、北周と突厥を追い払おうとしました。ところが連合軍の威容を見て圧倒されてしまい、なんと、業に逃げ帰ろうとします。それを止めたのが河間王孝琬(かけんおうこうえん)と、趙郡王叡(ちょうぐんおうえい)です。とどまった武成帝に孝琬(こうえん)は、自分に事態を任せてほしいと申し出、それを許します。そして孝琬(こうえん)は、趙郡王叡(ちょうぐんおうえい)に連合軍の撃退を命じます。趙郡王叡(ちょうぐんおうえい)は連合軍に撃って出、次に段韶(だんしょう)が出て追い払います。この功績で、孝琬(こうえん)は并州刺史に任じられました。
翌年、段韶(だんしょう)は北周と和平を結ぼうとして、北周の実権を握る宇文護(うぶんご)の母親を帰すことを条件にして交渉を始めます。しかし同じ頃、突厥が北周に、再び連合して北斉を攻めようと持ちかけたため交渉は決裂し、北周は洛陽を攻めます。このとき并州刺史の長恭は、洛陽救出の将として派遣され、あのエピソードのもとになる大きな功績をたてます。
この記述をまともに見ると、
以 前 → 長恭
河清2年(563)12月
突厥・北周連合軍が晋陽に侵攻
以 降 ← 孝琬(こうえん)
孝琬(こうえん)?
長恭?
河清3年(564)10月
突厥が晋陽に、北周が洛陽に侵攻
この間 ≪ 長恭 ≫
河清3年(564)12月 北周を追い払う
と、わずか一年の間に目まぐるしい変化をしたことになります。しかし「武成帝紀」や「蘭陵王伝」にそういう記述はありません。この記述を信じるよりも、突厥を撃った長恭が、564年12月まで并州刺史を続け、563年の功績で孝琬(こうえん)は別の高い官位に着いたというほうが、自然な気がします。また、長恭が斛律光(こくりつこう)とともに洛陽救出の大役を命じられたのは、この武勇を買われたからでしょう。
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