◆ 誕生〜少年時代 ◆ 封爵 ◆ 芒山の戦い ◆ 定陽の戦い ◆ 死を賜る ◆

 高長恭の生涯 


封爵


封爵の事情

 乾明元年(559)年3月壬申、長恭は蘭陵王の封爵を受けます。

 長恭の封爵は、成人がきっかけであったろうと書きましたが、ほかにも、政治的な事情が絡んでいるように思えます。
 長恭が封爵を受ける前の年の十月、初代の文宣帝が崩御します。そのあとを太子の殷が継ぎ、朝廷の人事が入れ替わります。ここに長恭の兄の孝瑜こうゆと孝琬こうえんが関わっていました。孝瑜は、文宣帝の死の二カ月前に尚書右僕射という要職に就きますが、この政変のあおりでその席を外されます。かわって翌年の三月、新しい皇帝の朝廷では、孝琬が司州牧に任じられました。首都の業がある州の長官ですから、やはり要職です。
 二人は、高澄の長子と嫡子ということもあって、ほかの兄弟に先んじて出世していきます。この二人には、早く朝廷で要職に就いて実力をつけ、ゆくゆくは自分が皇帝になってやろうという野望を、密かに抱いていたと思われる節があります。特に孝瑜は順調に位を重ねてきました。これから実力をつけていこうという時の交替劇です。何とか復帰したいと思うでしょう。いっぽう孝琬は、ようやく重職に就け、これから実力をつけていく時です。ここでもっと与党を増やしたいと思うでしょう。
 この二人の思惑が一致したところに、不遇な弟・長恭がいました。それに孝琬は、嫡流であるという自尊心が強い人でした。庶出子とはいえ、同じ血を受ける弟がまだ封爵をされていないことは、彼のプライドとして許せなかったでしょう。
 そこで、高官になった孝琬は、おそらく彼をその地位に就けてくれたと思われる、当時の実力者・常山王演(次に即位して孝昭帝となる)に頼み、孝瑜は、親友であり常山王に次ぐ実力者の、長広王湛(後の武成帝)を通じて長恭を推し、封爵に至ったと思います。もちろんその境遇に対する憐れみもあったでしょうが、こういう出世がらみの裏事情があるように思えてなりません。変に穿ちすぎていると言われてしまうかもしれませんが。

((追記))
 『蘭陵王碑』には、蘭陵王に封爵される前の長恭の来歴について、史書には書かれていない部分が書かれています。ここにそれを列記しておきます。これについての考察は「蘭陵王墓」の説明のところで説明します。
  天保八年(557) 散騎侍郎
  天保九年(558) 楽城縣開国公 食邑八百戸
  天保十年(559) 儀同三司(2回)
  乾明元年(559) 領左右大将軍 増邑一千戸


封爵直後の頃

 封爵によって表舞台に出られたと思いきや、またまた芒山の戦いの辺りまでの3年ほどの足跡がはっきりしません。ただ、これまでとは違ってヒントになる記述がいくつかあるので、その辺りをたどっていきたいと思います。

 蘭陵王に封ぜられてからの一〜二年間は、北斉では皇帝が二回も替わりました。この間に記述がないということは、長恭は、政情の目まぐるしさとはうってかわって、静かに日々を送っていたとのでしょうか? 官職を得て、その仕事を真面目にこなしていたのでしょう。

 「蘭陵王伝」のはじめには、「并州刺史(へいしゅうしし)に累遷(るいせん)す」という一文があります。
 「累遷」という言葉は、段々に高い位に就いていくという意味です。つまり、并州刺史になる前に何かの官位に就いていたはずなのですが、残念ながら正史には載っていません。
 并州は北斉の副都・晋陽を含む州で、突厥や北周の攻撃をたびたび受けてきました。その州の長官となると、政治にも戦争にもそれなりの才能を持っていないとつとまりません。あまり良くない政治だった北斉ですが、この并州刺史は実力者が名を並べています。こういう重要な職にいきなり就けるわけありませんから、この前に文官・武官ともに官を経ていたことは想像できます。

 だからといって、忙しく暮らしていたのかといえば、そうでもないようです。やはりこの間のことと思われる一文があるので紹介します。

  斉氏の諸王は、國臣府左を選ぶに、多くは富商、群小、鷹犬、少年を取る。
  唯、襄城、広寧、蘭陵王等は、文芸清識の士を頗る引く。当時此を以て之
  を称ぐ。                      (襄城景王伝)

   (北斉の宗室の諸王は、自分の臣下を選ぶにあたって、ほとんどの王が商人や
    佞臣、年若いものなどを採用した。その中で、襄城王、広寧王、蘭陵王等の一
    部の王は、学芸に秀でた者や知識人を臣下とした。このことによって、当時こ
    れらの王は賞賛された)

 襄城王(じょうじょうおう)は高澄の同腹の弟で、武成帝のすぐ上の兄にあたります。長恭から見れば叔父ですね。この人も容貌がとても美しかったそうで、その上、前途有望な器量の持ち主でした。けれど551年に、わずか16歳で亡くなります。
 広寧王は、前にも紹介しましたが、長恭の二番目の兄です。優れた人物を尊び、経書や史書を学び、文を綴るのを好み、技芸がありました。特に絵画が巧みで、役所の壁に画いた鷹の絵は、本物そっくりだったそうです。
 この2人に並べてあげられている長恭も、そういった方面に関わりがあったようです。前出の顔之推の著書『顔氏家訓』の中にも長恭の名前が登場し、顔之推のような文人たちとも親交があったことがうかがえます。 
 また、『北斉書』の「文苑伝」にこんな文があります。

  後主、群小に溺れたりと雖も、しかし頗る諷詠を好む。………蘭陵の蕭放、
  晋陵王孝式に直に敕を通し、古名賢烈士および近代の輕艶諸詩を録し、以
  て図書充つ。帝いよいよ之を重んず。

  (後主は、取るに足らぬ者ばかりを近くに侍らせていたが、その反面で、詩歌をとて
   も好んだ。彼は蘭陵出身の蕭放、晋陵王の孝式(または晋陵の王孝式)に、昔の
   立派な人物、烈士のことから、近代の流行り歌までを記録させ、おかげで図書が
   充実し、後主はいよいよこれを大切にした)

蕭放(しょうほう)は、侯景(こうけい)の乱によって当時の東魏(とうぎ)に亡命してきた南朝の梁(りょう)の皇族の一人で、武帝の甥の蕭祇(しょうぎ)の子です。
 もう一人の晋陵王孝式には伝がなく、この文のみに見える人物ですが、この人物が長恭ではないかとする研究者がいます(『六朝精神史研究』吉川忠夫著・同朋社刊)。はっきりとは書かれてないのですが、おそらく、晋陵≒蘭陵、孝式≒孝瓘こうかんということと、長恭が文人たちと関係があったのが理由のようです。
 これがもし本当なら、長恭は、北斉の文化や芸術に、深い関わりを持つ人だったと言えます。長恭自身の伝では戦功ばかりが目だって、優しい顔立ちのわりに武張った人という印象を持ちます。ところが少し目を転じると、こんな違った面も見えてきます。多才であったのか、好奇心が強い多趣味な人だったのか、蘭陵王長恭という人は、調べるほどいろいろなことが見えてきて、面白いです。
 ただ、兄の広寧王とは違って、長恭自身が詩文や書画などを能くしていたわけではないと思っています。むしろ、文人たちを集めたり支援したりする、パトロン的な存在だと思います。
 長恭は声が美しかったので、もしかしたら賦や歌が上手かったかもしれませんが。

((追記))
 「蘭陵王碑」では、以下のような記述が見えます。
 (意味がわかった範囲なので、間違ってたらすいません)
  皇建元年(560) 増邑通南一千戸、中領軍に転ず、開府儀同三司
            ※皇建元年は8月からなので、8月以降のことと思われる。
  河清元年(562) 使持節都督并州諸軍事、并州刺史
            ※ 「世祖武成皇帝踐祚し、」という文から始まっているので大寧元年
               (561)かもしれないが、続けて下記の記述があるので、こちらで解
               釈しました。
  河清2年(563)  別に鉅鹿郡開国公に封ず。食邑一千戸。領軍将軍に進む。

 最後の河清2年の記述はこの年の末に北周と突厥が攻めてきた時に関係しているのではないかと思うので、本当は外してもよいかも。
正史のほうだと大人しいのに、碑の文ではがらりと違っていろいろ関わっている。というか、封爵前後から芒山前後あたりが、長恭の最盛期ともとらえられる内容ですね。

((更に追記))
 河清元年(562)というと、高帰彦(こうきげん)の乱のあった年。この乱を収めたのは段韶(だんしょう)と婁叡(るえい)。その功績で、段韶(だんしょう)は大傅に、婁叡(るえい)は司徒となっています。同じ日に平陽王淹(へいようおうえん)、斛律光(こくりつこう)、趙郡王叡(ちょうぐんおうえい)、河間王孝琬(かけんおうこうえん)がそれぞれ位を上げていますが、ここに上がっている人々は、高帰彦(こうきげん)の乱に何か関わっていたのでしょうか? 史書からはそのあたりは見えません。
 もし長恭が并州刺史になったのがこのタイミングであるなら、長恭も高帰彦(こうきげん)の乱に何か関わっていたりしたのかも?


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